東洋医学用語、漢方用語解説

や〜よ行

ここでは特殊で難解な東洋医学用語、漢方用語並びに現代漢方医学
の基礎を作られ、漢方医学の発展に粉骨砕身の働きをしていただいた
先駆者の名前、功績、書物を判りやすく解説しております。
多少、解説の意味合いが違う場合があるかもしれませんが
ご了承お願いします。

なおご質問、ご相談等がございましたら、ご面倒ですがやなぎ堂薬局
宛てにこちらから⇒ご質問、ご相談を宜しくお願いします。
名称 解説
や行
矢数道明
(やかずどうめい)
薬徴
(やくちょう)
薬徴は1771年に吉益東洞が書いた著作物で、傷寒論金匱要略
記載されている漢方処方から53種類の生薬について過去の文献を
参考にして足りない部分を自分自身の意見、経験を継ぎ足した非常に
参考になる薬効書、薬物書であります。

余談・・・薬徴の一番最初に書かれている生薬は吉益東洞を有名にした
石膏について書かれています。
薬方
(やくほう)
薬方は処方を意味し、生薬が一般的な分量どうりに配合された漢方処方を
こう言います。

参考・・・薬方は単に「方」と呼ぶ場合もあります。
大和本草
(やまとほんぞう)
大和本草は江戸中期の宝永6年(1709年)に博物学者、本草学者であった
貝原益軒が80歳の時に刊行した書物であります。

大和本草の著作者である貝原益軒は若い頃に医学を学んでおり、その学んだ
医学書の中にあったであろう本草綱目の分類方法に貝原益軒独自の分類方法
を加え、さらに動物、植物等を含む薬物、鉱物、農作物、雑学などを新しく組み
合わせた日本最初の雑学書と言えます。
山脇東洋
(やまわきとうよう)
山脇東洋(1705年生まれ〜1762年没)
山脇東洋は1705年京都に生まれ、東洋は幼少より勉学に優れ、実父が医学を
学んでいた山脇玄脩の養子となり山脇の姓を名乗ります。
養父の山脇玄脩は後世派の漢方医で、最初東洋は後世派漢方を学びますが、
玄脩没後に後藤艮山と出会い、古方派漢方医となります。
やがて彼は皇室の御殿医になります。

1754年に彼の15年来の念願だった人体解剖が京都の六角獄舎で行われ、
その経験を参考にして1759年に日本最初の人体解剖書の「蔵志」が出版され、
後世の医学に影響を与えました。

参考・・・山脇東洋の影響を受けた漢方医で有名な人は吉益東洞原南陽
有名です。
よ行
養陰派
(よういんは)
養陰派は朱丹渓が唱えた漢方理論に同調する漢方一派です。

朱丹渓の理論によると体内の熱は体内水分が不足するから生じるのであり、
体内に水を補うことによって熱を冷ますと言うのが朱丹渓の理論です。

養陰派がよく用いた処方は滋陰降火作用のある
陽気
(ようき)
陽気を簡単に言えば陽の働きをする気をこう言います。

陽気は主に日光、空気などの「天の気」と飲食物の「地の気」を人間が
体内に取り込みエネルギーに変えて活動をする状態を言います。
陽気は性質的には熱、温を伴い昼に活動のピークを迎えます。
そして陽気は上(上半身)に集まる習性があります。

参考・・・陽気の反対は「陰気」です。
陽虚証
(ようきょしょう)
陽虚証は肉体的、精神的には陽証に属するように見えるが気力、
体力が低下しており元気が乏しい場合をこう言います。

陽虚証の症状が進行すれば虚証になります。

病状は陽実証⇒陽虚証⇒虚証に進行します。
陽実証
(ようじつしょう)
陽実証は古方派と後世派では考え方が異なります。

古方派では・・・陽証⇒病邪の侵入に抵抗できる状態を言います。
         実証⇒体力、気力共に充実している状態を言います。
         つまり陽証、実証の両方を兼ね備えてるものを言い、この場合は
         発汗剤、下剤を用いる事が多いです。

後世派では・・・陽が実している状態を言います。
陽邪
(ようじゃ)
陽邪風邪火邪暑邪と同じ性質があり、風邪、火邪、暑邪を長期に
触れたり、辛い飲食物、味の濃い飲食物を食したり、ストレスによるイライラ感
等により陰液が不足し、気、血の流れが正常な時より亢進し、風邪、火邪、暑邪
に診られるの症状がでます。

陽邪は熱に属している為上半身に進行しやすいです。

参考・・・陽邪の反対は寒邪です。
陽証
(ようしょう)
陽証八綱弁証の一つです。
傷寒論、太陽病上篇で「病有発熱悪寒者,発於陽也;無熱悪寒者,発於陰也。」
とあり、発熱、悪寒がある病は陽の時に見られ、熱は無く悪寒がある時は陰の
時に見られると記載されています。
つまり気力、体力が充実している元気な状態に病邪が侵入し体内で免疫物質が
病邪との戦いを繰り広げている時に発熱、悪寒が発生します。
体温の高い発熱、悪寒の他に頭痛、関節痛、浮脈、口渇、咳嗽など判りやすい
症状が見られます。
他に陽証では大量の汗、赤ら顔等の症状も診られます。

陽証の場合は大黄、石膏などの寒冷剤配合の漢方処方を用います。

参考・・・陽証の反対が陰証です。
陰証、陽証は急性病期(病邪が体内に進入して体内免疫力と闘いを始めた頃
つまり太陽病期)に病邪の進行状況や病邪の勢い、患者の体内免疫力の
抵抗方法(発汗、高体温、口渇、便秘など)等を様々な角度で観察し、陰証、
陽証に分けて治療を行います。

傷寒論では病邪の侵入に抵抗できる状態を陽証と呼び、病邪の侵入に抵抗
出来ない状態を陰証と呼びますが、後世方の考え方は人間には「陽の気」と
「陰の気」があり普段はバランスよく保たれているがどちらかに傾くと病気を
起こすと解釈しています。
楊梅瘡
(ようばいそう)
楊梅瘡は梅毒が皮膚に現れた皮膚梅毒をこう言います。

参考・・・梅毒は黴瘡(梅瘡)と言われていました。
楊梅瘡毒
(ようばいそうどく)
楊梅瘡毒は皮膚や骨、筋肉などに梅毒(皮膚梅毒)が診られる症状を
こう言います。

参考・・・梅毒は黴瘡(梅瘡)と言われていました。
陽病
(ようびょう)
陽病
容平
(ようへい)
容平素問 四氣調神大論によれば
秋三月、此謂容平。天氣以急、地氣以明、早臥早起、與ケイ(※1)倶興、
使志安寧、以緩秋刑、收斂神氣、使秋氣平、無外其志、使肺氣清、此秋氣之應、
養收之道也。
逆之則傷肺、冬爲ソン(※2)泄、奉藏者少。」
(※1ケイ=鶏の鳥の部分が隹)(※2ソン=タ+食)

「逆秋氣、則太陰不收、肺氣焦滿。」
秋の3ヶ月(8月、9月、10月)を容平と言い天の気の勢いは徐々に衰え、
地の気は一番活動的な時期です。
この時期は日の入りと共に就寝し日の出、特に鶏が鳴く頃から活動を始めます。
この時期は安らかな気持ちで秋の枠を持ち、神気は引き締め、秋気は穏やかに
収め、この志(神気、秋気)は外に出さずに肺気を清める為に使います。
この秋気(秋の息吹)を取り込めば秋を養う一つの道です。
秋の取り込みを怠れば肺を痛め、冬に食べると消化不良を起こし下痢をする
病状が現れます。冬を大切にする者は少ないです。」

「秋の気に逆らうの者は太陰が「収」を行う事が出来ず、肺の気が上焦に
充満する。」と記載されています。

容平の名前の由来である「容」は「容器、器」という意味があり「平」には
「収める、おさまる」と言う意味があり、容平は秋の万物の実りや陽気を体内に
収納する時期をこう言います。


秋は春と夏で養った万物の実りと陽気を体内に取り入れ冬に備える時期で、
心静かに冷静な気持ちで激しい運動、労働などの活動をしてはいけません。
秋に発汗をする行動を行えば肺を弱らせ風邪を引きやすくなります。

参考・・・容平は秋の心身調和方法を書いてますが、春の心身調和方法は
發陳
、夏の心身調和方法は蕃秀、冬の心身調和方法は閉蔵と言います。
陽明病
(ようめいびょう)
傷寒論 陽明病の定義・・・「陽明之為病、胃家実是也」
陽明病は病邪(急性熱病)が内側に移行し、内側から身体に影響が出ている
状態です。
構図で表せば太陽病(表位)⇒少陽病(内位)⇒陽明病(裏位)と表現します。

傷寒論 陽明病篇では
「太陽陽明者、脾約是也。正陽陽明者、胃家実是也、少陽陽明者、発汗、
利小便已、胃中燥、煩、実、大便難也。」

とあり、症状は病状が進行し、腹部実満、高熱で、熱臭のある汗をかき、小便の
回数多く、口乾き、舌に乾燥した白苔、黄苔、黒苔など現れ、体内乾燥し、悶え
苦しみ、脈は力強く、津液不足の為に便秘などの症状があります。また裏位の
熱により譫語を発する場合もあります。

治療方法は石膏を主薬とし、熱を下げる白虎湯類を用います。
又、便秘、腹部膨満感、譫語のある場合は大承気湯、小承気湯などの承気湯
類を用います。又、陽明病期は津液が不足している為に発汗剤、利水剤は
用いてはいけません。

余談・・・陽明病の名前の由来は「陽証」が「日」と「月」で照らした程にはっきり
と身体全体に現れて見える状態を言います。

病邪の進行状況を示す三陽三陰は傷寒論では次のように移行すると記載
されています。
太陽病⇒陽明病⇒少陽病太陰病少陰病厥陰病

しかし、病邪の進行を示す山陽三陰の陽明病と少陽病を入れ替える説を唱える
漢方医もいます。
陽明病と少陽病を入れ替えるとこのようになります。
太陽病⇒少陽病⇒陽明病⇒太陰病⇒少陰病⇒厥陰病

(※私のHPは太陽病⇒少陽病⇒陽明病⇒太陰病⇒少陰病⇒厥陰病にて
構成しています。)

最後に太陽病期は「発汗」、少陽病期は「中和」、陽明病期は「瀉下」が基本
治療方法と考えられます。
横根
(よこね)
横根は梅毒などの性病に感染した男性、女性に出る病気で、症状は両足の
太もものリンパ節に炎症が診られます。

参考・・・横根は別名で便毒又は横痃とも言われます。
吉益東洞
(よしますとうどう)
吉益東洞(1702年生まれ〜1773年没)
江戸中期の古方派の漢方医で青年の頃から医学を学び、37歳で京都に上り
44歳の時朝廷の御展医山脇東洋と出会い一躍有名漢方医となり、後に
吉益東洞も山脇東洋同様に朝廷の御展医となりました。

彼は当時主流だった後世派の陰陽五行説を廃して「どんな病気にも一つの毒
が原因で万病が起こる、その原因は外邪と飲食である。」とする「万病一毒論」
を唱えました。
又、他に「経絡経穴、脈診、病名なんてものは無用である。必要なのは腹診と
古典(傷寒論、金匱要略)のみである。」とも説き後世の漢方医学に多大な
影響を与えました。
彼は古方派の大家と言われました。

彼の著作品は「類聚方」、「方極」、「薬徴」、「医事或問」などがあり、
「類聚方」、「方極」は傷寒論、金匱要略の条文から主要な処方について
適切に書かれており現代でも利用できる大変有効的な書物として
伝わっています。
又「薬徴」は「傷寒論」、「金匱要略」に記載されている53種類の生薬の効能、
効果を記載している書物です。
「医事或問」は衰退していた明治時代の漢方医学を復興させた「医界之鉄椎」
の著者である和田啓十郎に大きな影響を与えました。

余談・・・彼は京都で古方派漢方を唱えますが、認めてもらえない不遇の
日々が続きますが、御展医山脇東洋が処方した薬から石膏を除けば良いと
アドバイスしその処方に感服した山脇東洋に認められ有名になります。
彼の著作物の「薬徴」の第一番目は石膏について書かれています。
(吉益東洞は別名で「東洞石膏」とも言われます。)

私個人の意見ですが東洞の偉大な業績として当時の漢方医(後世派)が
余り用いることが無かった生薬があります。
それは「石膏」、「麻黄」、「附子」でこの3種類の生薬は効能、効果が絶大
であるが副作用が顕著で、この時代の漢方医(後世派)は堕落しており、
地位と名誉を守るためにこれらの攻撃剤を好まず、人参、甘草などの
高価で効能が温和な生薬を用いる漢方医が多かった江戸時代に「石膏」、
「麻黄」、「附子」を研究して適材適所に用いた東洞に偉大さを感じます。

又、上記に記載した生薬以上に危険な「大戟」、「巴豆」、「商陸」、「甘遂」
などの催吐剤峻下剤を含んだ漢方処方(紫円、走馬湯、十棗湯、平水丸、
応鐘散など)用いて毒(病邪)を体外に排出させました。
この治療方法は激しい嘔吐と下痢症状を伴い、中には気絶する者までが
いましたが東洞は「嘔吐と下痢は瞑眩である。瞑眩とは毒(病邪)の最後の
悪あがきである。薬も毒である。毒をもって毒を制す。」と述べています。
(私個人の意見・・・滅茶苦茶です。(笑) 息子の南涯や当時の漢方医、
東洞に影響を受けた明治時代の漢方医の和田啓十郎もこの考え方には
全面的な支援、擁護をしておりません。)

(吉益東洞は古方派の大家であるが、金元四大家の一人である張従正が
催吐剤、峻下剤、発汗剤を用いて治療しており、張従正の理論が吉益東洞
に影響を与えたことがうかがいしれます。ただ吉益東洞の治療方法のほうが
過激です。)

この治療方法は治癒率が大変良く、東洞は名医と言われましたが当時の
庶民には恐ろしい治療方法であったと思われます。

この治療方法は庶民だけではなく家族にも行われました。
東洞の子供に有名な吉益南涯がいますが、南涯の弟が4歳のときに痘瘡
にかかって重体にとなり、一般庶民と同じように峻下剤(処方名:紫円)
を用いて治療を行いましたが息子は亡くなってしまいます。

息子の死から数年後に娘も疱瘡に罹り、症状も亡くなった息子と同じで
あり、その時も東洞は亡くなった息子に用いた紫円を用いようとしましたが
妻が泣いて「止めて下さい」と懇願しますが「娘の命は天命が握っている。
死ぬのは天が見放したのであってこの病邪にはこの薬が合う」と言って
紫円を服用させて全快にさせています。
(私個人の意見・・・恐ろしい父親です。現代でこの行為を行えば児童虐待
の罪で逮捕されます。)

彼の息子の吉益南涯は父が唱える「万病一毒論」は理論は簡単だが過激
すぎると考え、その延長理論の「気・血・水理論」を唱えました。
(私個人の意見・・・そりゃ弟は死ぬは、妹は治ったが悶絶するは、親父の
過激で無茶苦茶な理論にはついていけない部分があったかもしれません。)

彼の弟子に折衷派の大家と言われる和田東郭がいます。

吉益東洞は別名「東洞石膏」と呼ばれる程色々な漢方処方に大量の石膏を
加えたり、石膏を含む漢方処方を多いに用いました。
彼の門人や東洞の考えに同調する人々も石膏を乱用する傾向がありました。
吉益南涯
(よしますなんがい)
吉益南涯(1750年生まれ〜1813年没)
江戸中期の古方派の漢方医吉益東洞の長男で幼少の頃より父と同じく傷寒論、
金匱要略などの古方漢方を勉学し、南涯24歳の時に父吉益東洞が亡くなると、
一族、門人の育成を引き継ぎました。

南涯43歳の頃に現代漢方の基礎となる「気・血・水理論」を唱え、傷寒論、
金匱要略理論の解釈となり、他の漢方医に新説と受け入れらました。
後、彼は傷寒論、金匱要略に出ている薬方の解説として「気血水薬徴」、
「観證弁疑」、「方庸」などの書物を残しています。

余談・・・南涯の父親である吉益東洞が唱える「万病一毒論」では
「病の毒は毒(下剤、嘔吐剤)を使って治療する。」と言う過激な理論で、
息子南涯は父親の説に修正を加え、病気の原因が体内の「気」、「血」、「水」
であるとする「氣・血・水」理論を唱えました。

世界で初めて麻酔手術した華岡青洲も吉益南涯の弟子でした。
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